40年で400本のピンク映画を手掛けた浜野佐知監督。女性が不遇の時代に映画界へ殴り込み、今も映画人として生き抜く彼女の原動力はどこにあるのか、その神髄に迫る。
近年、女性監督の活躍が目覚ましい日本映画界。そんな彼女たちの道標を築いたのがピンク映画の女性監督・浜野佐知だ。1948年生まれの浜野は、40年以上にわたり約400本の作品を手掛けてきた。もちろん、日本の女性映画監督としては、最多の本数を誇る。浜野の映画製作の原動力は「怒り」。それは、女性が蔑視されてきた日本映画界への怒りであり、日本社会への怒りでもある。浜野佐知は中学生時代、ジャン=リュック・ゴダールの作品に日本映画にはない「強い女性像」を認め衝撃を受ける。その後専門学校に入り映画監督を目指すが、当時の大手映画会社の採用条件は「大卒男子」。理不尽さに憤る浜野は、当時ピンク映画界で注目を集める監督・若松孝二の若松プロダクションに入る。が、映画界のヒエラルキーに反発し、撮影初日に会社を飛び出す。以後フリーの助監督を経たあと監督デビューは24歳の時だった。
その後、多くのピンク映画の監督は一般映画に進出していく。製作費は頭打ち、客層は固定化するなど、今、ピンク映画を取り巻く状況は厳しいが、浜野は「エロこそが女性が表現できる場」としてこだわりを持つ。そんな浜野の新作の製作が2015年2月に決まった。緊張感の中で行なわれた主演のジャズシンガー・真梨邑ケイへの企画提案を経てクランクインした2015年5月、浜野の怒りと思想と想いは作品として形になっていく。